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1960~70年代、モトクロスとカートで日本王者となった菅家安智はセナの同僚としてともにカートの世界選手権を戦ったことで知られる。
当時間近で接していた彼が語る、青年セナの面影とは―

 アイルトン・セナの初期のレースキャリアにおいて、日本人で唯一チームメイトになったことがある人物、菅家安智。現在菅家は、レース界から離れ、生まれ育った東京都墨田区でうるし紙の製造・販売を行なっている。日本で専門に扱う会社はごくわずかであり、その存続に尽力する数少ない職人のひとりだ。
 そんな彼は、日本のモータースポーツ界、とりわけカート界においては、後世に語り継ぐべき実績を残した人物である。
セナとの出会いの経緯を知る意味でも、まず彼のレースキャリアについて駆け足で触れることにしたい。

モトクロスからカートへ

 10代の頃からモトクロスライダーとして活躍していた菅家は、1963年、鈴木自動車工業(現スズキ)とレーシングライダー契約を結び、同年の全日本モトクロス選手権で新人賞を獲得。66年にはブリヂストン(BS)のタイヤテストライダーとなり、長谷見昌弘らとタイトル争いを繰り広げた。その後、数々のレースでタイトルを手にし、70年に「スズキ・レーシング・サービス・スガヤ」を設立した。
 そしてモトクロスライダーの選手育成に励んでいたある日、チーム員の誘いを受けカートライセンスを取得。当時、横田基地の側にあった武蔵のサーキットでカートデビューを果たす。76年の話だ。
「同じレース競技だったし、考えてみようかと思ったんです。まずは1セット揃えてレースに出場したら7位。鈴木利男が出場していて、とても速かったのが印象的でした。」
 早くカートになれるために2クラスで練習を積んでいた菅家は、新設されたばかりのスポーツランドSUGOでの『第1回ジャパン・カート・レース』で早くも優勝。翌年は同選手権でタイトルを獲得し、BSとカートタイヤ開発契約を結ぶのであった。

SUGOで運命の出会い

 菅家がセナと邂逅したのは78年、2年前と同じSUGOで開催された国際レース『第2回ジャパン・カート・レース』だった。
 「僕らがサーキットに入る前に、BSの人から『ブラジルの子供で、ものすごく速いヤツがキている』という話を聞いていたんです。彼がまだ18歳ぐらいだったと思います。その時はまだ日本では無名のドライバーでしたが、実際にすごく速くてビックリしました。」
 レースで相見えることになった両者は激しい3位争いを繰り広げる。そして20
周レースの19周目に菅家がセナをかわす。
「一番奥の左回りのコーナーでした。その手前で僕の方が速かったから、一度でスパッと抜きました。結局僕が3位で彼が4位。外国人ドライバーが1、2位で日本人が3位だったからなのか、すごく悔しがっていましたね。日本人には負けることはないと思っていたんじゃないかな」

当時18歳。初めての日本でのレースにもかかわらず、全日本王者である菅家と表彰台争いを演じたセナの速さは驚くべきものだが、残り1周で自分をオーバーテイクした日本人のことは、強く印象に残っていたに違いない。
 翌年再会したポルトガルの世界選手権で、こんなエピソードがあったという。
「週末になるとすぐ僕のところに来てね。タイヤが目的だったんでしょうね。ステファノ・モデナ(当時セナのチームメイト)とふたりで、『いいタイヤないのか』って聞いてくるんです。日本から持ってきたタイヤではないけど、現地で僕らが使うタイヤを1セットずつあげたんですよ。そしたら彼らの乗り方には合わなかったみたいで。とにかくタイヤに関してはものすごいシビアでしたね」
 なおこのレースで菅家は、日本人初となる予選通過&ポールポジションを獲得する快挙を成し遂げいている。各国勢はワークス体制がほとんどの中、フレームとエンジンは自社製という体制だったが、同じく自身が開発を行なっていたBSタイヤの性能は引けを取らないものだったのだ。結局セナは2位、菅家は5位に終わった。

際立つセッティング能力

 それから3年後の82年、セナはスウェーデンで行なわれた世界選手権に参戦していた。
 当時はイタリア製メーカーDAPのシャシーとエンジンを使用していたが、エンジンの排気量が110cc(100ccのボアアップ)と、他チームが持ち込んでいた135ccのものとは明白なパワー差があった。しかしセナには、その差を補う天性のセッティング能力があったという。
 そのレースで、モデナの代役としてセナのチームメイトとなった菅家は、間近で見たセナのセッティングへのこだわりをこう解説する。
「当然本人もパワーで劣っているのは分かっていました。だから、その差を埋めるためにコーナーを速く走る。ストレートはついていけないけど、中だったら135ccも110ccも変わらない。かえって110ccの方が速く走れるところもあるから、そこを伸ばした方がいいんじゃないかって。『スガヤ、ストレートで稼げないからとにかく中のセッティングだけ煮詰めろ。あそこのコーナーはショートホイールベースの方がいい。他のこことここはロングの方がいいけど、タイムを稼げるのはショートのあそこだから、ショートでテストした方がいい。特にあそこの立ち上がりはタイムを稼げるからそうした方がいい』と言うわけです。ただ、僕らにとってはクイックすぎてダメなんですよ(笑)。
 あとセナは、1コーナーでチョーキング(キャブレターの吸気口を塞ぎエンジンを一時的に冷却する手法)をしながら一度離れる相手を次のコーナーの突っ込みで抜いていく。僕らは徐々に追いついたり一緒に走っていければ抜ける感じでしたが、若干離されたのを抜くのは普通99%無理です。あれはすごいなと思って見ていました」
 こうした経験を積みながら磨かれていたセナのセッティング能力。ただ、当時のセナにはそれだけではない優れた特長があった。
「クラッシュが合っても必ず避けていましたね。誰とも絡まない。あれも才能なのかもしれないけど、レースでは最後まで走っていましたよ。それと限界を把握しているからマシンも壊さない。僕らから見ると結構無理してコーナーに入っていると思うんだけど、チョーキングして片手で流しながら入っていって、それでも絡まないで抜くわけですから」



















































82年、スウェーデンで開催されたカートの世界選手権でセナと写真に収まる菅家。右端はセナが使用していたメーカー「DAP」の社長アンジェロ・パリラ。




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