1944年(昭和19年)6月2日 | 墨田区本所3丁目に生まれる |
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1963年(昭和38年)4月 | 日大一高卒業、日大経済学部入学 |
5月 | 杉並クラブ(トーハツランペット)よりプライベートでモトクロスデビュー |
7月 | トーハツ(株)よりファクトリーエンジンを貸与される |
10月 | ヤマハ系スポーツライダースとスズキ(株)よりオファーがあるものの、田中健二朗氏率いるホンダ系のテクニカルスポーツとの契約を希望し、当時そこで活躍中の大月信和氏を通してテストに臨むも荒天になりテストは中止。テクニカルスポーツへの夢を断念。 |
11月 | プライベーターとして参戦中に、城北ライダースの鈴木誠一氏の誘いでスズキ(株)と契約。城北ライダースの契約ライダーとなる。
※当時城北ライダースは精鋭揃いでSP忠男の鈴木忠男氏、レーシングドライバーの星野一義氏も加入を熱望していたと言われています。 ●モトクロス、ダートトラック軽量級で8連勝する ●63年度全日本モトクロス選手権新人賞 |
1965年(昭和40年) | 城北ライダース所属ライダーとして活躍 ●第2回モトクロスGP90ccクラス優勝 65年度チャンピオン |
1966年(昭和41年) | モトクロスタイヤテストライダーとしてブリヂストンと契約 ●全日本ダートトラック選手権 50cc、90cc両クラスチャンピオン ●全日本ロードレース選手権2位 |
1969年(昭和44年) | 度重なる怪我により、選手生活を断念。チーム員の育成とレーシングサービスに専念することにする。 |
1970年(昭和45年) | スズキ・レーシング・サービス・スガヤ設立 (スズキ自動車の二輪エンジンの開発に携わる) (株)スズキ自動車工業とモトクロス部門契約 |
1976年(昭和51年) | チーム員の勧めでカートの開発に着手 ●全日本カート選手権に参戦、初戦こそ勝利を逃すがその後9連勝 ●全日本カート選手権Aクラスチャンピオン |
1977年(昭和52年) | (株)エス・アール・エス・スガヤに社名変更 (スズキ自動車の二輪エンジンとカートエンジンの開発に携わる) ●全日本カート選手権Aクラスチャンピオン ブリヂストンとカートタイヤ開発契約を結ぶ |
1978年(昭和53年) | ●全日本カート選手権Sクラスチャンピオン ●鈴木亜久里スガヤ・スタッグで全日本選手権Aクラスチャンピオン |
1979年(昭和54年) | ●全日本カート選手権A、S両クラスチャンピオン 〈現在も両クラス同時チャンピオンは1人のみ〉 ●レーシングカート世界選手権参戦(ポルトガル)5位入賞 今まで予選通過も果たせなかった日本人ライダーの中で初出場でポールポジション獲得。予選3ヒート、決勝3ヒートを走りきり総合5位入賞を果たす ▶1979世界選手権参戦記はこちらから ●香港ワールドカートGP4位 |
1980年(昭和55年) | ●望月新一スガヤ・スタッグで全日本選手権Aクラスチャンピオン |
1982年(昭和57年) | ●F1チャンピオンのアイルトン・セナとチームを組みイタリアのDAPチームから世界選手権に出場 ▶セナとのカート時代の記事はこちらから |
1983年(昭和58年) | 3年契約で無限カートエンジン開発に携わる |
1984年(昭和59年) | ●無限カートにて全日本カート選手権3位 |
1985年(昭和60年) | ●無限カートにて全日本カート選手権2位 ●無限カートにて全日本カート選手権チャンピオン |
1986年(昭和61年) | スズキRGガンマの販売が本格的になり (株)スズキ自動車工業でレース用ガンマのエンジン開発を再開鈴鹿8時間耐久レースにRG500rで総合14位入賞〈これは2サイクルエンジン初の快挙となる〉 |