| 1 | 2 | 3 | 4 |




































BS荒尾氏が様子を聞きに来る






















































































ジャーナリストでごった返すパドック






9月21日(金曜日)

 今日は、昨日のタイムトライアルで31位以下となった選手達による予選ヒートが行われるわけだが、昨日のタイムトライアルで、13位を得てシードドライバーとなった菅家は、今日一日レース観戦にまわった。タイムトライアルの順位によってa、b、c、dの4グループに分かれた選手達による総当り制のヒートが6回ある。菅家はまず、レースの雰囲気をつかむことと、スタートの方法、タイミングを研究するため、このレースをつぶさに観察する。
 今日は風が非常に強く冷たい。ジャンバーかコートなしではとても寒くていられない。菅家は「なんていやな風だ」と思ったが、この風が、自分に有利に働くとは、この時思っても見なかった。さすがに各国のトップレベルの選手が集まっているだけに、素晴らしいレースを展開してくれる。31位とはいっても秒差はわずかなものである。とにかく1秒の間に26人もの選手がひしめきあっているのだから・・・・。菅家はいまさらながら、世界選手権の厳しさを感じた。しかし、菅家にはシードされたという余裕があった。「この連中よりも俺は速いんだ」という。菅家はこう自分に言いきかせて、とにかくこのレースに自分が飲み込まれないようにしていたのかもしれない。しかし、確実に菅家の中に“自分”が芽生えていたことは確かだ。
 この日菅家がつくづく思ったのは、いいエンジンがほしいということだった。幸いにイアメ社からワークス仕様のエンジンを借りることはできたが、やはり一抹の不安は残る。特にこうしたハイスピードコースでは、エンジンの性能の占めるウエイトはより重くなる。事実菅家の前、12番手以前に位置するドライバーは、T.フラートンを筆頭に、S.D.シルバ、M.アレン、P.コーネ、S.モデナなど、やはりワークスエンジンを使用することができる、いわゆるワークスドライバー達が多い。もちろん腕も確かには違いないが、いいエンジンさえあれば俺だって!という意識が、菅家の中にあった。
 夜、BSのサービスマンからディナーの招待があり夜7時すぎ菅家はエストリルの海辺のホテルへ出かけて行った。明日の決勝タイムトライアルに向けて菅家は1日充分に英気を養った。

9月22日(土曜日)

 エストリルサーキットには、朝から冷たい強風が吹き荒れた。ポルトガルもこれから冬に向かうのだろう、日に日に風が冷たくなっていく。菅家は、「まだまだポルトガルは暑いよ」と日本で聞いていたため、この寒さにはいささか閉口していた。それにこの風だ。昨日よりも一層強くなっている。コースサイドのクラッシュパット役のかなり重いワラタバが風で飛ばされるほどである。「こんなんでタイムトライアルができるのかな」と菅家はつぶやいた。日本ではこんな強風下のレースは経験したことがない。
 今日は最も大切なタイムトライアルの日である。20日の第1タイムトライアルでシードされた30名の選手と、21日に行われた20日タイムトライアル31位以下の選手による予選ヒート上位34名の選手の合計64名によるタイムトライアルで、これによって決勝ヒートに残るための予選ヒート(a,b,c,dの総当り)のポジションが決まる。このタイムトライアルのポジションが、予選ヒートすべてのヒートのポジションとなる。このタイムトライアルでいい位置につければトラブルがない限り、決勝ヒートは残れるだろう。決勝ヒートは34名で争われる。
 20日のタイムトライアルで、ある程度自信をつけた菅家だったが、今日もまた緊張した顔を見せていた。今日の場合は、「いいところへ行ってやろう」という気魄が前面に出ているように見える。エンジンはゾーゼルチューンパリラだ。ドリブンスプロケットは78枚を準備した。他の選手は76~77と1~2枚少なめである。「もう少し少なくしたほうがよい」というアドバイスを他チームのメカニックの何人かから受けた。しかし、慣れた第1タイムトライアルのギヤ比78枚でいく決心をした。エンジン温存というのもその理由のひとつだった。
 キャブレターは買い入れの決まったスイス製スライドキャブを装着。赤い色がひときわ目にまぶしい。秋山、中島両メカが、万全の準備をしてくれたはずだ。菅家は、マシンに関しては安心し切っていた。あとは運だけだ。菅家の勝負運の強さは定評があるが、ここでも強運を呼ぶことができるか・・・・・・・。やはり菅家は祈らずにいられなかった。
 菅家のスタート順位は12番手、最初の方である。風はあい変らず強く、結局、レギュレーションによりタイムトライアルと同時に行われるはずのデジベル検査(音量検査)が中止されてしまった(コースに対して横風8m縦風10mを越す場合は中止)、各ドライバーとも“風”との闘いを強いられることになった。しかし菅家のスタート時はまだそれほどの強さではなく、後へ行くに従って、時折突風を伴った強い風が吹き荒れることになる・・・、ここでも菅家はついていた。
 菅家はスタート位置についた。闘志が体全体にみなぎる。エンジンが壊れるか、タイムが先に出るか、菅家はノーチョーキング1周目、勝負をかけようと決心する。1周のウォーミングアップ走行から、全開でグリーンフラッグをくぐり、第1コーナーへ、風は・・・菅家の気魄に押されたのか、幾分弱まった気さえする。ノーチョーキングでまわる第1コーナーは、「キーン!」という高周波音が響き渡る。菅家は、そのその音を快く聞いた。そしてスプーン---第2スプーン---ヘアピン---最終のクランクコーナーとアクセルペダルをワイヤーも切れよとばかりに踏み込む・・・・・。
 外人選手もタイヤ性能アップと共に、走りも豪快なドリフト走法からきれいなグリップ走法に変わりつつあるが、全体にはドリフトを基調とした走りを見せている。そんな中で肩を丸くした小柄でがっちりした菅家のきれいなグリップ走法は、実におとなしく見えた。記者の目にも何か物足りなさを感じるほどであった。しかし、菅家にとってこの走りがベストであり、自身で開発しているBSタイヤはまさに菅家スペシャルと言えるほどにマッチしている。事実、S.モデナに貸し出した、スペシャルコンパウンドのタイヤは、モデナにとってあまりにもくいつき過ぎ、逆にタイムが落ちるという結果になっているのである。
 菅家は最終コーナーから顔を埋めてフィニッシュ地点を通過-----。秋山メカのウォッチは50秒87を示している。一瞬ピット内がドヨめいた。この風の中で第1タイムトライアルより良いタイムを出したのだ。これなら行けるかも・・・・。しかしまだまだ強豪が後にひかえている。

 2周目の第1コーナーを再びノーチョーキングで回った菅家は、次のスプーンに飛び込む。
そして体いっぱいに横Gを感じながらコーナーを曲がり切った…直後…「パシッ!」という音 がすると同時に、いきなり菅家がスピン!「しまった, 焼きつだ!」一瞬菅家は蒼ざめた。秋山、 中島両メカニックがかけ寄る。そこで1回目のタイムを聞いた菅家はホッと一息をつく。
焼きつきの原因はオイルシールが減ってしまっていたためだった。
 1回だけのトライ、公式記録は秋山メカの計測した通り50秒87である。今のところこのタイムを破ったものはいない。あとは待つだけだ。菅家はやっと落ち着いた。
 強風の中、タイムトライアルが続けられる。M.ウイルソンが走り、デ・ブリンが走り、モデナが走り、アレンが、ゾーセルが走る。が、菅家のタイムは破られない。ピットは次第に興奮してきた。そして, 本命と見られていた第1タイムトライアル1位のT.プラートンが走る。独特のきれいなドリフト走法を見せながら、果敢にアタックする。51秒を切った。しかし菅家には及ばず50秒89. わずか2/100秒差だ。菅家陣営は色めきたった。「ひょっとしたら……」。そして最後にS.D.シルバが51秒11に終わった。やったやった!なんとポールポジションなのである。
菅家のピットは湧きに湧いた。菅家は全身で喜びを表わし、秋山は、嬉しさをかみ殺し、中島メカは「神風だ!神風だ!」とさわぎたてる。いつもはもの珍しそうにピット内をのぞいて行くだけのジャーナリスト達がどっと押しかけフラッシュがしきりにたかれる。他チームからお祝いに来たり、見学に来たり、ピットはもう大騒ぎである。当然のことだ。極東=far east から単身やってきた名もないジャパニーズドライバーが、並入る強豪を抑えてポールタイムをマークしたのだから。まさにセンセーショナルな出来事に違いない。
 菅家自身も信じられなかった。「まさかポールポジションとは!」菅家の実感でもあった。
 矢つぎばやに浴びせられるインタビューに、ニコニコと答えながら、それがほんとのことであることを体全体で感じとろうとしているようでもあった。
 この結果が出て以降、各国のドライバー、メカニックたちのSUGAYAを見る目は違ってきた。
行き会う人ごとに「ハロー」と気がるに声をかけ、我々日本人記者にも、何かと菅家の速さをさぐろうと、声をかけてくる。一番態度の変わったのは、同パドックのプルトガル勢だった。今まで仲間だと思っていたドライバーが、急に手の届かないところに行ってしまったという感じで、雲の上の人を見るような感じになって、見る目も違ってきたのである。
 キャブレターを売る予定にしていたフランスチームは、真っ先にかけつけ、「あのキャブはあなたに提供したい。ぜひ決勝でも使ってけれ」といって申し出たのである。それどころかイアメ社のグラナ社長までが、「おめでとう!とにかく頑張ってくれ」と握手を求めてきたのだ。「ドライバーは速くなくてはダメだ!」菅家にとって, 今日ほどこの言葉が実感として感じられたことはなかった。しかし、この喜びに浸ってばかりはいられない。焼きついたエンジンをなおし、夜遅くまで、慣らし運転を続けた菅家が、ホテルに帰ったのは8時をすぎていた。その夜、菅家陣営は、ホテルでお祝いのシャンペーンをあけた。このタイムトライアルのトップは菅家にとって、いや日本人すべてにとって意義深いものだったのである。ディナーの終わったあと、菅家は日本の自宅へ国際電話をかけた。次女れえなちゃんの5歳の誕生日だったのである。まず結果を報告、「ポールだよ」、返ってきた答えは「うそ!信じられない」である。そう、日本のカート関係者、誰に電話しても、答えはこれ一つだった。



































パドックに他チームから物珍しそうにのぞきに来る






































マシン調整に余念がない






























































































ポールポジション獲得






| 1 | 2 | 3 | 4 |

Copyright© 2009 うるし紙 菅家 All Rights Reserved.